ザ・クリエイター/創造者 反転的SF大作

さて公開からレビューでは高得点を連発しているザクリエイター。
ゴジラ2014や、スターウォーズ唯一の成功作と言われるローグワンの新星ギャレス・エドワーズのオリジナルSFである。

 

相変わらずネタバレなしでスマートに紹介は苦手なので、ネタバレありで独自解説をしていきます。見てない人はすんません(吐血)。

 

ギャレスといえばその豊富なオタク知識から、数々の過去のSFは勿論のこと、松本人志が最も愛した映画でもある「ペーパームーン」や、若山富三郎の「子連れ狼」など今ではややマニアックな引用もあることがよく話題になるが、その辺りの解析は今回はあまり重要な意味があるとは思えないため、他の方に任せる。

誰も指摘してない範囲で言えば、アンダーテールには「アルフィー」という、魂を持つロボット、メタモンを作るキャラが出てくる。

落合陽一

さて20世紀フォックスの予告映像の一つに落合陽一氏が出てくるタイプがある。

よくわからないのはあなただと思われていそうだが果たして


この動画の中で氏はこの映画を非常によく出来ていると評価している(そりゃCMだしな!)ことに加え、「US側はAIを駆逐する割にAIがないと動かないだろう兵器を使っている」事を指摘している。

これは恐らく本編中の「nomad」のことを指している。nomadは青色レーダーで地形や攻撃対象をスキャンし、その後自動追尾ミサイルを放つ爆撃機なのだが、攻撃対象が人間や乗り物の場合、スキャンした後にも当然軌道予測の再計算が必要になる事は想像に難くない。
動かぬ要塞やテロリストの住居を爆撃するのとは訳が違う。でたらめに逃げていく対象に、都度再計算をし、先を予測をしなければ追尾は不可能だ。そのためその都度条件分岐を自動で変えていくAIが必要なはずだと落合氏は看破したのだろうと思う。

このように、ある種の矛盾や、反転がこの映画では随所に仕込まれている。その他を見ていこう。

 

例えばこの映画におけるAIは意図的に有機的で、かつ感情を持って描かれる。

ギャレス組常連の渡辺謙は、今作ではやたらと大きな声で叫ぶセリフを多用している。
AIらしく緻密に計算し、指令をデータで飛ばすのではなく、大声で味方を鼓舞するモチベーター的な指揮官である。しかしAIにモチベなんてあるのか?と。

他にもアイスAIお姉さんや、自爆指令を嫌がるAI、泣きまくる救世主アルフィーなど、とことん人間らしさ、暖かさを持つ。

その反面人間たちは政治的な決定や、組織のルールにがんじがらめで歯車となっており、よほど機械的なのである。

そして更に重要な反転は、AIの救世主アルフィーにある。

彼女は人間たちから「兵器」と呼ばれているのだが、実は彼女の能力は、兵器を無効化できる能力である。

「抑止力」などという言説上の建前ではなく、地球上にかつて存在しなかった本当の意味での専守防衛の能力なのである。

そのこの世界から争いを消せる唯一の能力をアメリカは破壊したがっているという構図になっている。

このポイントはすぐに現在の世界情勢を思わせるだろう。核兵器を製造すると国際的な非難をやにわに浴びせる割に、非難している国自身が核兵器保有国なのである。

恐らくこのポイントがこの映画でも最も強いメッセージであろう。
ベトナム戦争がー、アジアの民族がーというのもあるのかもしれないが、むしろアクチュアルに捉えるならば日本を含めたニューアジアは「非核保有国」「平和護持の日本やチベット」の象徴として見る方がより現実味があると考えられるし、ゴジラでも「核」を描いているギャレスならばさもありなんである。

そして、こうしたいくつかの反転を経ることでようやく私たちはこの映画のタイトルを再び見出すことになる。

果たして人は本当にクリエーターなのか、それともデストロイヤーなのか。
そしてクリエイターであるために必要なのは、アルフィーのように自分とは違う側に属する他者への愛であると。
という具合にお手本のようにフリとオチが綺麗にまとまっており、落合氏が「めちゃくちゃまとまりがいい」と述べるのも当然かも知れない。

最後に蛇足だが、ハードSFが好きな人からすれば、攻殻機動隊のゴーストダビングをさらに推し進めて普通に意識がコピー出来ちゃう設定は流石に科学を無視しすぎな雰囲気はあるものの

映画に関してはフィリップKディックの電気羊からのブレードランナーとかマイノリティリポートとかエイリアンのようなソフトな物の方が案外2時間とかの尺に納めなきゃならない映像的にはちょうど良いテーマ性になったりするのでアリだと思うのだ。

「アリストテレスのまぼろし工場」 考察ネタバレあり

はじめにお断りしておきますが、これから述べることを、信じるか信じないかは、信じるか信じないか次第です。(進次郎構文)

最初は反発を受けるんだろうとことはある程度覚悟で書いていきますね。自惚れじゃないんですが、同じようなことが過去にもあったことなので。

この映画は実在の出来事をモデルにしている

さて、ちょっと前振りチックのところから入ります。2016年の新海誠監督の「君の名は。

10代の男女による遠距離SFムービー、タイムトラベル恋愛もので一世風靡した映画ですが、この映画はそのライトな恋愛ものというテーマにもかかわらず、映画の最初から最後まで窒息しそうなくらいテンションが重々しく緊迫感がある映画でもあります。

さて、その緊迫感の理由は何なのかは、この映画の背景に「東日本大震災」が裏のテーマとして潜んでいるからだというのは今ではよく知られたことだと思います。公開から7年経って監督が直接メディアを通じて言及しました。(NEWS 23)

東北地方で作られる関電の電気で、関東圏、特に東京都の人々は日々生活しています。しかし実際に東北の人々が負担をしていたリスクに対しては無神経だった。その死者への「わからなさ」を「君の名は」という事で端的に表現し、震災で死んだものたちへの無理解や、ファンタジーの世界においての結びつきを描いた。大江健三郎風に言えば「死者の声を聴け」というやつですね。(一部批判が起こったのも大江健三郎と同じだけど)

さて、上記と非常に似た手法が、今回アリスとテレスのまぼろし工場にも同じように使われていたと私は思っています。同じようにライトノベル風なSFちっくなファンタジーの中で描かれる恋愛ものであるにもかかわらず、その雰囲気は終始激重で、異様に張り詰めた空気が映画を漂っています。

1953年の「君の名は」は戦災。2016年の「君の名は。」は天災、そして2023年のアリスとテレスのまぼろし工場が描いているのは人災。

私の動画では最後にネタバラシをしていますが、こちらのnoteでは最初に書きますね。アリステレスのまぼろし工場の裏に流れているテーマは京都アニメーション放火事件」だろうと考えています。

これからそう思える理由を書いていきます。

①小さなヒロイン「五実」という名前について

あの小さい少女は主人公の正宗から、「いつみ」と名付けられます。その理由は映画本編では、「むつみ」が「6つの罪だから、一つ減らして5つの罪で五罪だ」と冗談めかして正宗が語ります。
しかし、この説明、自分にはブラフに見えます。実際は他の理由からこの名前にしたことを強引に隠匿しようとして「6つの罪」などという他のエピソードとほぼ因果関係を持たない強引な説明が急遽後で足されたんだろうなという印象があります。

たしかに睦実は嘘つき狼少女と名付けられているため、罪を何か背負っていても別にさもあり何な感じではありますが、「6」が別に数え上げられて描写される展開も待っていないため、かなり浮いていて唐突なわけです。

むしろ「いつみ」という名前がそもそも先に設定され、そのカモフラージュとしてその後で「むつみ」が後発で考え出されたと考えるほうが自然なわけです。

では「いつみ」とは何なのか。答えは英語読みにしましょう。

It's me(これはわたし)

つまりこの少女は作者自身、岡田麿里さんを示しています。

んなアホな。と思う気持ちもわかりますが、一度冷静に彼女のキャラクターを見てみましょう。

彼女はこの正宗や睦実の世界において、「唯一の生者」であります。他のキャラクターは全てまぼろし(フィクション)。
そしていつみは「神の女」となぜか呼ばれており、彼女の精神状態がもろにこの世界の「ひびわれ」に直結しており、彼女の精神状態いかんでこの世界は崩壊して消えてしまう。そしてまた、「いつみ」だけが、このまぼろし世界と現実世界の壁を超えることが可能な存在になっています。

この設定の説明はとりあえずここで止めておいて次に進みます。

②地名

この映画では度々地名が登場します。正宗たちが住んでいる街は「見伏」。バスでいける隣町は「見多裏」、車のナンバーは「元征田」だったかと記憶しています。
見る、という字を何か意図的に使っているんだろうな、というのは表向きのメッセージです。しかしこれもブラフだと自分は考えています。

Noteでは最初にもうネタバレしているので、さっさと答えを言いますね。
「見伏」を逆にしてみてください。
「伏見」ですね。
つまり京都府京都市伏見区です。京アニの所在地なんですね。

まぼろし工場ってそもそも何?

本編では、見伏は製鉄の街で、製鉄工場だと説明されますが、この映画この設定が非常に浮いてるんですよね。
製鉄の街だとか言ってますが、たとえば今村昌平の「にあんちゃん」とか、一時期流行ったフラガールみたいに、炭鉱都市であることがストーリーや登場人物たちの置かれた状況、性格などにがっつり絡んでくるならまだしも、この映画のキャラたちに「製鉄工場」なんて別に絡まない。ぶっちゃけ製紙工場だろうが捕鯨の街だろうが成り立つレベルの薄い設定にすぎないわけです。

ところが、この工場はタイトルにまで入っているわけで、非常に重要なエッセンスでもあるわけです。
最初はまぼろし工場、と言われると「まぼろしの世界の工場」ってことかなと思いがちだと思いますが、「まぼろしの工場」ではなく、「まぼろし工場」とワンワードにされています。ここにも意図が感じられます。

つまり、「まぼろしの世界の工場」ではなくて、「まぼろしを製造している工場」だというニュアンスだと思えます。
まぼろしとは何か、それはフィクションであり、フィクションを製造していたという意味で「アニメスタジオ」とつながっていく。最初からこれを舞台にすることは決まっていたというわけです。

とりあえず大きな理由はこの3つで十分かと思います。
「ある日京都府伏見区にあるアニメスタジオが爆発し、みんな煙に飲まれて死んでしまった。その場所で時が永遠に止まってしまい、そのまぼろしの世界へ生者である「わたし」が入っていき、そこにいた人々が本当に生きたかったであろう人生と関わる。という「追悼の映画」です。

そしてさらには「いつみ」はこの世界の住人の娘であるという設定にもなっており、「私はこの工場で産まれた」なんてセリフもクライマックスにあります。つまり自身は精神的に京アニに育ててもらい、それが突然消えてしまったことを心の中でうまく受け入れることが出来なかった、でもこれからは残されたものの未来を歩まねばならないんだ、という作家自身の心の「踏ん切りの映画」であるとも言えます。

この映画はそういう筋書きになっているわけですね。

政宗が絵描きを目指していたことも、あの世界では人が消える時「神機」と呼ばれる煙が襲ってくることも、符合していますね。

また、最後の方で村の老人がこんな感じのことも言います。(文言自体は正確じゃないので文意のみ)
「この街は鉄を採取する罪で神様に閉じ込められたわけじゃない。もともと不幸にもおこった爆発で死んだ人々があまりに不便で、神様が一番いい形で残してくれたんだろう」と。

容疑者ははじめ「盗作」という罪への報復だと説明していましたが、法廷において詳しく聞いてみるとどう考えても言いがかりでしかない程度のものにすぎず、京アニ側に罪なんか何一つなかったんです。

新海誠監督や、岡田麿里監督のようにイマジネーションが非常に豊富な作家というのは、ともすれば現実との接点がない自分勝手な空想に話が終わりやすく、そのため作家自身が積極的に現実的、社会性を持った出来事を絡めて創造をしていくという方法はいたってロジカルで過去にも例のあるやり方とは言えるでしょう。

「こんにちは、母さん」映画雑感

見たばかりなので、取り止めのない文章になるやも(ネタバレはあるので念のため)

 

一応公式も吉永小百合主演で「母」三部作と銘打って、2008「母べえ 」2015「母と暮せば」そして2023「こんにちは、母さん」とついに大ラスが完結したわけなのだが、あんまり見終わったという感じがしないのは、この母シリーズを貫く共通テーマが薄いから。

 

1930年代の日中戦争から開戦までを濃く描いた「母べえ」、原爆前後を描いた「母と暮せば」と比べて、今度は急に舞台が2023年の現代となっている。原作者も、黒澤組で有名な野上さん、井上ひさしさん、そして今回の永井愛さんと、毎度毎度すべてが違う。

こう言うと元も子もないが、松たか子さんが主演していた同監督の2014「小さいおうち」のほうが時代設定もテーマも前2作とは共通項が多く感じるほど。

 

そういう意味で、監督発案からこれをシリーズだと銘打っていたのではなく、製作主導でサユリスト向けに、「吉永小百合が3本山田洋次作品に出演するという契約が満了した」という以上の意味にあまり思えなかったかもしれない。

密かな山田ファンである自分ですら(堂々と公言しろよ!)そう思ってしまったのだから、一般の映画ファンからすれば更にそういうマーケ戦略上のシリーズ、サユリストびいき、的な手管だと揶揄されるレビューを世間で見るにつけても、「それは違うんだ!聞いてくれ!」と擁護するのすらちょっと難しい気が個人的にしている。

 

さて、まあ前書きは置いといて作品について評価していきたい。

 

 

【優れているポイント】

山田作品に出る役者はドラゴンボールの神様ばりに、本人すら長年自覚できなかった潜在能力を120パーセント引き出される。

このことを私はほんとにすごく感じる。「母べえ」時の浅野忠信の演技は何十作と見てきた浅野忠信の中でも出色の出来で、彼の直線的な骨格や、オフビートな表情までもが、どこか間抜けだが異質なほど誠実な男「山ちゃん」の個性にがっつりと絡みついていた。

「小さいおうち」の黒木華はほぼデビュー作といってもいいものの、日本アカデミー賞を取っても何の文句もない、「まっすぐな瞳で致命的な嘘をつく」恐るべき演技。

「母と暮せば」の妻夫木も、彼のベストかどうかはわからないが良い演技を見せてくれていたし、当然その流れから来て今作の大泉洋は明らかにまた一つ違うレベルに入ってきたと言いたくなる本当に素晴らしいものだった。本年度の日本アカデミー賞も大いに期待できるのではないかな。

 

【気になってしまった残念ポイント】

鑑賞中どうも一点だけ気になってしかたなかったのは、世代設定が若干ちぐはぐに思えてならなかったこと。現代が舞台だけに余計にリアルにそのズレは感じてしまう。

具体的にいうと、主人公の吉永小百合が老舗の足袋屋の女房という設定なのだが、回想シーンがまるで昭和初期とか大正時代みたいな白黒モードで語られたり、好きな人である寺尾さんとデートのシーンでもがっつり和装で、ピアノコンチェルトの演奏会に出かけ、終わりがけに伊万里焼でケーキセット、お紅茶を楽しむみたいなシーン。こういう老人像がどうも少し古いんじゃないかという気がしてしまう。せいぜい平成までの老人像ではないか?今そういう老人がいるとしたら、世代イメージというよりはむしろもうディアゴスティーニとかで後からそういう趣味を身に付けた趣味ガチ勢の人だろう。

 

そういう感触を持ちながら後で調べると原作は2001年にはかかれていたことを知る。もう22年も前だ。22年くらい何とかなるだろう、という感覚なのかも知れないが、ひと世代も違う。

 

私の両親なんかも現在70代に差し掛かっており、吉永小百合当人よりは若干年下で、小学校の年長と1年生程度の差はあるものの、両親に向かってこの映画に出てくるような老人像を押し付けたなら「そんなに昔あつかいすんな」と絶対憤慨されてしまう。

 

両親世代は青春時代には、もう60年安保はとうの昔に終わっていたし、ビートルズもそろそろ解散するという段階である。そんな彼らに、結婚時代はまだ白黒の時代で、今は和装でピアノコンチェルトで小料理屋にいる小津映画みたいな人々、などと言おうものならそりゃー怒られるに決まっている。たまに実家に帰れば彼らは普通にスマホで最近のソシャゲをやっているしマーベル映画なんかも見ている。青春時代は小津よりは明らかに007やスターウォーズに親近感を覚えていた世代だ。

 

劇中では田中泯さん扮するホームレスが言問橋の上から「空襲の時にこっから飛び降りて助かったんだ、お前ら若い奴は家にでも帰ってろ」的な怒号を飛ばすのだが、78年前の空襲の記憶が鮮明にあるのであれば、すでに90歳〜100歳近くでもおかしくない。実際の田中さんは78歳で空襲の時は0歳だ。そのため田中さんは本当に一生懸命演じられていて頭が下がるものの、その叫びがどこか空虚に響いてしまった。

田中さんじゃなくて91歳の山田監督が橋の上からそう叫ぶのなら揺さぶられるかも知れないが。

こはちょっとめんどくさくても、2001年時点の日本に戻ってそこを舞台にしないと何かとおかしなズレが出てきてしまっている気がする。

 

【総括】

映画としての出来で言えば、やはり良質な映画であることは違いない。また小津調はやっぱり意識しているのだろう、「赤いヤカン」はもろに出てくる。

しかし「男はつらいよ」時代に描いていた、何があっても最後は家族の暖かさを見せつけられて旅ガラスに戻っていく寅次郎、という態はすでに押入れに封印されており、「家族はつらいよ」で見せてきた、「家族というのは脆くていとも簡単に壊れてしまう」イメージや、人の温もりを浪花節で暖かく描くというよりも、距離感がおかしくてノイズになったり、不要に傷つけあってしまうという現代の人とのつながりを描くことに完全にシフトしているのは、繰り返し出てくるウーバー イーツやお掃除ロボルンバしか触れ合いがない、という描写にも痛切に感じる。(このシーンは劇場で笑いが起きていた。男はつらいよのタコ社長がルンバに転生したのだと思うと確かに笑える)

 

しかし一方で、「母べえ」や「母と暮せば」に込められた、かなり斬新なメッセージ性は私はいまだに評論家からも見落とされているのではないかと思っている。

それは昭和の山田洋次の残り香が観客の脳裏にいまだに残っており、表面的には浪花節日教組の戦後教育(全体主義批判)みたいなステレオタイプなヴェールがいまだに目を眩ませてしまうからだと思っている。これは山田監督にとっては若干不幸なことに思う。ここで私のいう斬新なメッセージ性は、いつかどこかでちゃんと触れたいと思う。