「アリストテレスのまぼろし工場」 考察ネタバレあり

はじめにお断りしておきますが、これから述べることを、信じるか信じないかは、信じるか信じないか次第です。(進次郎構文)

最初は反発を受けるんだろうとことはある程度覚悟で書いていきますね。自惚れじゃないんですが、同じようなことが過去にもあったことなので。

この映画は実在の出来事をモデルにしている

さて、ちょっと前振りチックのところから入ります。2016年の新海誠監督の「君の名は。

10代の男女による遠距離SFムービー、タイムトラベル恋愛もので一世風靡した映画ですが、この映画はそのライトな恋愛ものというテーマにもかかわらず、映画の最初から最後まで窒息しそうなくらいテンションが重々しく緊迫感がある映画でもあります。

さて、その緊迫感の理由は何なのかは、この映画の背景に「東日本大震災」が裏のテーマとして潜んでいるからだというのは今ではよく知られたことだと思います。公開から7年経って監督が直接メディアを通じて言及しました。(NEWS 23)

東北地方で作られる関電の電気で、関東圏、特に東京都の人々は日々生活しています。しかし実際に東北の人々が負担をしていたリスクに対しては無神経だった。その死者への「わからなさ」を「君の名は」という事で端的に表現し、震災で死んだものたちへの無理解や、ファンタジーの世界においての結びつきを描いた。大江健三郎風に言えば「死者の声を聴け」というやつですね。(一部批判が起こったのも大江健三郎と同じだけど)

さて、上記と非常に似た手法が、今回アリスとテレスのまぼろし工場にも同じように使われていたと私は思っています。同じようにライトノベル風なSFちっくなファンタジーの中で描かれる恋愛ものであるにもかかわらず、その雰囲気は終始激重で、異様に張り詰めた空気が映画を漂っています。

1953年の「君の名は」は戦災。2016年の「君の名は。」は天災、そして2023年のアリスとテレスのまぼろし工場が描いているのは人災。

私の動画では最後にネタバラシをしていますが、こちらのnoteでは最初に書きますね。アリステレスのまぼろし工場の裏に流れているテーマは京都アニメーション放火事件」だろうと考えています。

これからそう思える理由を書いていきます。

①小さなヒロイン「五実」という名前について

あの小さい少女は主人公の正宗から、「いつみ」と名付けられます。その理由は映画本編では、「むつみ」が「6つの罪だから、一つ減らして5つの罪で五罪だ」と冗談めかして正宗が語ります。
しかし、この説明、自分にはブラフに見えます。実際は他の理由からこの名前にしたことを強引に隠匿しようとして「6つの罪」などという他のエピソードとほぼ因果関係を持たない強引な説明が急遽後で足されたんだろうなという印象があります。

たしかに睦実は嘘つき狼少女と名付けられているため、罪を何か背負っていても別にさもあり何な感じではありますが、「6」が別に数え上げられて描写される展開も待っていないため、かなり浮いていて唐突なわけです。

むしろ「いつみ」という名前がそもそも先に設定され、そのカモフラージュとしてその後で「むつみ」が後発で考え出されたと考えるほうが自然なわけです。

では「いつみ」とは何なのか。答えは英語読みにしましょう。

It's me(これはわたし)

つまりこの少女は作者自身、岡田麿里さんを示しています。

んなアホな。と思う気持ちもわかりますが、一度冷静に彼女のキャラクターを見てみましょう。

彼女はこの正宗や睦実の世界において、「唯一の生者」であります。他のキャラクターは全てまぼろし(フィクション)。
そしていつみは「神の女」となぜか呼ばれており、彼女の精神状態がもろにこの世界の「ひびわれ」に直結しており、彼女の精神状態いかんでこの世界は崩壊して消えてしまう。そしてまた、「いつみ」だけが、このまぼろし世界と現実世界の壁を超えることが可能な存在になっています。

この設定の説明はとりあえずここで止めておいて次に進みます。

②地名

この映画では度々地名が登場します。正宗たちが住んでいる街は「見伏」。バスでいける隣町は「見多裏」、車のナンバーは「元征田」だったかと記憶しています。
見る、という字を何か意図的に使っているんだろうな、というのは表向きのメッセージです。しかしこれもブラフだと自分は考えています。

Noteでは最初にもうネタバレしているので、さっさと答えを言いますね。
「見伏」を逆にしてみてください。
「伏見」ですね。
つまり京都府京都市伏見区です。京アニの所在地なんですね。

まぼろし工場ってそもそも何?

本編では、見伏は製鉄の街で、製鉄工場だと説明されますが、この映画この設定が非常に浮いてるんですよね。
製鉄の街だとか言ってますが、たとえば今村昌平の「にあんちゃん」とか、一時期流行ったフラガールみたいに、炭鉱都市であることがストーリーや登場人物たちの置かれた状況、性格などにがっつり絡んでくるならまだしも、この映画のキャラたちに「製鉄工場」なんて別に絡まない。ぶっちゃけ製紙工場だろうが捕鯨の街だろうが成り立つレベルの薄い設定にすぎないわけです。

ところが、この工場はタイトルにまで入っているわけで、非常に重要なエッセンスでもあるわけです。
最初はまぼろし工場、と言われると「まぼろしの世界の工場」ってことかなと思いがちだと思いますが、「まぼろしの工場」ではなく、「まぼろし工場」とワンワードにされています。ここにも意図が感じられます。

つまり、「まぼろしの世界の工場」ではなくて、「まぼろしを製造している工場」だというニュアンスだと思えます。
まぼろしとは何か、それはフィクションであり、フィクションを製造していたという意味で「アニメスタジオ」とつながっていく。最初からこれを舞台にすることは決まっていたというわけです。

とりあえず大きな理由はこの3つで十分かと思います。
「ある日京都府伏見区にあるアニメスタジオが爆発し、みんな煙に飲まれて死んでしまった。その場所で時が永遠に止まってしまい、そのまぼろしの世界へ生者である「わたし」が入っていき、そこにいた人々が本当に生きたかったであろう人生と関わる。という「追悼の映画」です。

そしてさらには「いつみ」はこの世界の住人の娘であるという設定にもなっており、「私はこの工場で産まれた」なんてセリフもクライマックスにあります。つまり自身は精神的に京アニに育ててもらい、それが突然消えてしまったことを心の中でうまく受け入れることが出来なかった、でもこれからは残されたものの未来を歩まねばならないんだ、という作家自身の心の「踏ん切りの映画」であるとも言えます。

この映画はそういう筋書きになっているわけですね。

政宗が絵描きを目指していたことも、あの世界では人が消える時「神機」と呼ばれる煙が襲ってくることも、符合していますね。

また、最後の方で村の老人がこんな感じのことも言います。(文言自体は正確じゃないので文意のみ)
「この街は鉄を採取する罪で神様に閉じ込められたわけじゃない。もともと不幸にもおこった爆発で死んだ人々があまりに不便で、神様が一番いい形で残してくれたんだろう」と。

容疑者ははじめ「盗作」という罪への報復だと説明していましたが、法廷において詳しく聞いてみるとどう考えても言いがかりでしかない程度のものにすぎず、京アニ側に罪なんか何一つなかったんです。

新海誠監督や、岡田麿里監督のようにイマジネーションが非常に豊富な作家というのは、ともすれば現実との接点がない自分勝手な空想に話が終わりやすく、そのため作家自身が積極的に現実的、社会性を持った出来事を絡めて創造をしていくという方法はいたってロジカルで過去にも例のあるやり方とは言えるでしょう。